私の博士論文  博士号は運転免許証!?

川内紫真子 

そんなの楽勝だぜ!

 「L-Mafマウスホモローグのクローニング」これが修士課程で与えられたテーマだった。私が奈良先端大の安田國雄研に配属になった日は、水晶体の発生を制御する新規転写因子L-mafのニワトリ胚での発現がin situ Hybridizationで明らかになった日でもあった。水晶体は未分化状態を保持しつづける上皮細胞と最終分化した線維細胞のわずか二種類の細胞からなる単純な構造体で、その分化過程を細胞形態や位置関係で区別できる。L-mafは線維細胞分化マーカーであるクリスタリン遺伝子のエンハンサー領域に結合する因子として取られてきたのであった。先輩達がこの日得られた結果にエキサイトする中、くっきり染まったニワトリ胚の目を見れば、マウスでの結果もイメージしやすく、「大学4年の卒業研究でホモローグ取りの仕事もしてたし、楽勝、楽勝!」と呑気に実験生活をスタートしたのであった。

ところが、まず行ったマウスのcDNAライブラリーに対するLow Stringency Hybridization Screeningという単純な手法では、なかなかクローンが取れない。「ゲノミックライブラリーなら確実」と思い、それにもチャレンジしたが一向にL-mafのホモローグが取れてこなかった。修士課程も半ばを過ぎ、研究室全体が水晶体細胞誘導というL-Mafの機能発見に湧く中、この状態にはかなりの焦りを感じた。材料から見直してみようと考え、100匹以上のマウス胚から小さな小さな水晶体を取り出し、cDNAプールを作成して、Maf familyに対するRT-PCRを試みたが、やはりマウスL-mafホモローグは取れなかったのである。これが私の研究生活の最初の大きな壁だった。

 これまでのいろいろな結果を並べ、順番を入れ替え、眺めているうちに、いくつか新しいことに気付いた。RT-PCRの結果において、今まで気にもとめていなかった同じMaf familyであるc-mafの発現が発生過程の水晶体でかなり強かったのである。in situ Hybridization で調べてみると、やはり水晶体で特異的に発現していて、そのパターンはニワトリL-mafのそれと非常によく似ていた。

c-Maf?L-Maf?

さて、これからどうしよう。c-mafに進むか?L-mafを追うか?私は、博士課程のなかで一番大きな決断を迫られた。Mafファミリーはニワトリ癌ウイルスAS42より発見された原癌遺伝子v-Mafの細胞性関連蛋白質である。このファミリーは、Jun, Fosと同じ塩基性領域ロイシンジッパー(b-ZIP)型の転写因子をコードしている。Mafの分子機能に関する研究はかなり進んでいたが、ノックアウトマウスなどの個体レベルでの機能解析はまだ始まったばかりであった。そんな時、ある先輩に言われた言葉が私の決断を促した。「バイオ研究の世界のPh.D.は、研究の運転免許証みたいなものだから、なるべく早く取って路上に出た方がいい。」それまでの私は、漠然と「博士号取らなきゃ」ぐらいにしか考えていなかったが、この一言によって時間には限りがあることに気づかされた。c-Mafが水晶体細胞分化に必要であることはまだ誰も知るまい。今ある持ち札で新しいことをやってみよう。私はc-mafの遺伝子ノックアウトマウスを作成、解析するプロジェクトを開始した。

情報の新しさと量は大切

私は、ES細胞と同じ129sv/Jマウスラインのゲノミックライブラリーからc-maf遺伝子を単離したところで、筑波大学の山本雅之研究室にクローン持ち込みで研究室留学した。ノックアウトマウス作成にはいくつかハードルがあり、そこでつまずくと数ヶ月単位で実験が遅れてしまうこともしばしばである。そこで即座にトラブルシュートできる情報が蓄積している環境は実験を進める上でとても大切だった。

ノックアウトベクターにはLacZ遺伝子を挿入したので、ヘテロ世代F1マウスを樹立した時点でc-Mafの発現部位を可視化することができた。LacZシグナルはマウスの水晶体に強く認められ、in situ hybridizationの結果とよく一致した。さらにc-Mafは分化過程の線維細胞にのみ認められ、上皮細胞では全く発現していないことがわかった。このことからc-Mafが水晶体細胞の分化段階を担う因子であると強く期待しつつ、F2ホモノックアウトマウスの解析に進んだのである。

論文投稿ジェットコースター

 

 F2世代が誕生し始め、生後一日で新生児マウスのうち必ず数匹が死んでしまうことに気が付く。ジェノタイピングしてみると、そのほとんどがc-maf(-/-)の遺伝子型だった。形態的にはほとんど異常がなかったが、頭皮から透けて見える網膜が野生型に比べて小さいことに気づいた。急いで切片を作成し、顕微鏡を覗いた。明らかに線維細胞が欠落し、丸いはずの水晶体が空洞化していたのである。「わたしの仮説は正しかった!」この日が博士課程で最も気持ちが高揚した日だった。落ち着くために誰もいない廊下を選んで何度も走ったような気がする。

 ところがちょうどそのころ、「海外の学会でc-mafノックアウトのポスターを見かけた」という情報がいくつか寄せられるようになり、私たち以外にも2つのグループが同じ分子を追いかけてることがわかった。勝利の余韻は一転、大きな焦りに変わり、その後フルスピードで実験を進めた。c-mafノックアウトマウスの水晶体で、分化マーカーである各種クリスタリンの発現がmRNAレベル、蛋白質レベルでともに著しく低下していることを示し、論文に仕上げ、the Journal of Biological Chemistryに投稿し、受理された。なんとか間に合った。ほぼ同じ時期、同じ内容で計3つのグループから論文が出されたのであった。

あたりまえだけれども

ところで、博士号取得を目指す皆さんに声を大にして言いたい。今すぐ審査要項を入手して熟読しよう。審査規定は在籍する大学によってかなり違う。研究室を異動した人は特に要注意である。私の失敗談を少しだけ披露する。博士論文の内容は上述のように博士号取得予定より約半年前にジャーナルに受理された。審査までには時間があると思い、特に審査要項を熟読するのを後回しにしていた。いざ審査の準備を進めていたときに、マイナーな、しかし重要なポイント(はずかしいので内容は秘密です。)をクリアしていないことに気づいたのである。てんやわんやの状態で、結局予定より半年遅れてやっと審査を通過した。この間はまわりの皆さんに多大な迷惑をかけ、自分自身どの実験がうまくいかなかった時より消耗してしまった。

おわりに

晴れて博士号を取得して、ポスドクとなって実感することだが、研究を進めるには実験を行う能力の他にも管理能力、情報収集能力(!)、文章力、英語力、プレゼンテーション能力といったすべてが要求されてくる。博士課程は先生や先輩に、どこか見守られながらこれを一通り練習する期間であり、この間に自分だけの研究者雛形が形成されていくはずだ。博士号取得後も同じ事を繰り返しながら、もっと大きな勝負がいくつもやってくる。現在私はDr. Anne Calof研究室で臭覚神経上皮を扱いながら、やはり細胞分化に関する仕事をしている。いろいろなバックグラウンドを持つ仲間と同じ現象に取り組んでいると、今の私の研究観は大学院時代に培われたことがよく分かる。(書類にも気を付けるようになりました。)

「博士号は運転免許証」 ようやく路上に出て一人で走り出し,景色を眺めたり,たまにはぶつかりながら私は今この言葉を実感している.

本研究論文は、共同研究という形で私のテーマと興味を一貫させて頂いたお陰でまとめることができました。山本雅之先生(筑波大)、江藤一洋先生(東京医科歯科大)をはじめ、安田國雄先生(奈良先端大)、高橋智先生(筑波大)に深く感謝いたします。